昭和49年12月25日 朝の御理解


 御理解第72節 人間を軽う見るな。軽うみたらおかげはなし。

 おかげはなしと、はっきり仰っておられます。私共は風采がよいから、この人はいえらい人じゃないだろうかというてその特別扱いをしたり、または風采が悪いから軽く、この人達は大した人達でははないだろうと見下げたりそういうようなことが私共の上にはあるのです。そしてハット気付かせて頂いて思わせて頂くのですけれども、とにかく神の氏子としての見方頂き方と言う事が出来ておらんとそういう結果を招きます。
 人を軽う見る。また実際に軽う見られたらやはり気分の良いものじゃないですよね。いうなら軽蔑されると。軽蔑した見方をする。それが言葉態度に出てくる。こんなに、嫌な感じと申しますか、または嫌な感じくらいじゃない、腹も立つ事もあります。そんなら一つ自分自身も人にそういう嫌な感じや腹を立たせるようなことがあってはならない。というてその、まあ低調すぎてもどうかと思う。そこに本当に神様の神の氏子としての見方。いうならばその人のどこかに、神性を見ると。神の性を見ると。そういうことだと思うですね。軽う見たらおかげはなしと仰るのですからこの辺のところを一つ本気で、やはり取り組んで行くというかやはり信心を本当に身に付けていかないと出来ないことだと思う。
 昨日は、久留米の古賀さんところのお祭、それに今度改式をされましたから、奥さんの里の御霊様も勿論古賀さんの家の方からの御霊様も合祀のお祭、今度立派なご新築が出来ました。それこそ昨日はそれで話したことでしたけれども、何か成る程今まではやはり、お屋敷のいわばお祭をしてあったんだけれども、なんとはなしに神様が古賀さんのお宅で気兼ねしてござるといったような感じの神様があったけれども今度はそれこそ、一番良いしかも始めから、神床として、新築されたのですからもうそれこそ、話には聞いておったけれども、こんなに見事な、お家、と言う事を言ってびっくりしました。
 ちょうど半年前に、本当に丸焼けになられた。ね。何一つ出すこと出来ないほどのいわば全焼に合われたけれども日頃の古賀さんの信心。そこからの夫婦力を合わせての信心。それがこのような見事はいうならば身を結んだという感じです。私行ってから驚いたのは、とにかく、まあ、あういうのが銘木というのでしょうかね、土佐杉それから、屋久杉なんかのね、節どんがある柱なんか一本もありません。目に見えないところまでまあその、気が使っておる。しかもふんだんにそういう木を使っておる。
 もう贅沢な出方です。私はあんなに見事なお家とは知らなかった。もう外見も素晴らしいけれども、中に入ってまた驚いた。間取りも良いし、もうその、本当に見事なこれはほんに、ついこの頃焼け出されてから、焼け出されたもんが立てたもんだとは思われない。本当におかげを受けておるなあと。ご存知のように材木関係の仕事をなさっておられますから、あちらこちらの材木屋さんから提供された材木がいわばふんだんにあったし、また素晴らしい、いうならベニヤ張りのぼこぼこ家のところは一つもない。もう応接間なんかでももう、あの、なんというですか、此処と同じです。たいひです。応接間が。私は本当に驚きました。そして、まあ、思わせて頂いたことはです、これは古賀さん達の夫婦のこれからの信心が大変だなあと思うたです、古賀さんが(?)申しましたことですけれども、あんた達が本当の意味で信心の内容というものが出来あがってこれならば、別だけれどもいうならば信心はこの家がたないのにこれだけのものを頂いたのだから、これからはあなた方夫婦の信心で中身を詰めていかなければいけないねと、まあ言ったことで、ただおめでとうございます、ただ良かったねというて、賀ぶだけではおられない。さあこれから、本気で信心させてもらわにゃといったようなものを感じました。というほどしに立派です。 昨日菊栄会の方達が皆おかげを頂いたんですけれども、中にすぐお隣が、大きな天理教の教会がございます。その、天理教も立派な教会です。最近、以前に行ったときには立派な教会が出来ております。
 そこの教会長先生というのが不思議な縁で、私共が菊栄会で佐賀の方に参りました時にたまたま、レストランで、古賀さん、古賀さんが同じ近所だというだけで特別、心安い付き合いをしておられる。それからあちらのお世話であの窯元めぐりをした時に紹介してもらって、わざわざ来て頂いた。それからこの前もちょうど一年後にあちらは別府に参りました時でしょうか、あちらの、山並みの、レストランでたまたま一緒になったのです。あたしとあなたは七夕さんのごたるですね、年に一遍しかもレストランで逢うといったような大変気さくなお方でした。私もそれも思いかけなかった。よもやこの頃からお付き合いとか近所なんかのお祝いにはすんでおりまして信者関係のいわゆるお祭である、また新築祝いであるまたは改式の祭でもあるといったような内容のお祭でございましたから、よもや天理教の先生が参っておるなど思いもしなかった。
 ところがあの、みえております。そういう時にです私はあの今日のご理解を頂いて思うのですけれども人間を軽うみるな軽くみたらおかげはなしといわれるが、天理教だからというて、見下げることもなからなければ見上げることもない。私はこの見上げると言う事もあんまりどうかと私は思わせて頂いた。いうならば金光教の先生のなかに天理教の先生が入ってこられる一つの異分子でけれども、それを一つも感じられなかった。はあ、今日は天理教の先生が来ておるから固くなってお話なんてことで、かえってですね、何か有り難いお話が自分で出来たと思わせて頂いた。今日は私は軽う見るなと言う事はまたは重く見すぎてもならないということなのです。
 重く見すぎると言う事は必ず軽く見すぎるという反対の事になるのです。教祖様があの、あちらの殿様がね、いわゆるまきだっぽうがご参拝になっておられるます。そん時でもやはり殿様だからというて特別扱いはなさっておられないです。ね。というてなら、どういう、困った難儀な風の人が参ってきても神の氏子としての取り扱いをなさっておられる。軽く見るなと言う事はまた重くみるなという事もあるのじゃないかと私は昨日古賀さんところの宅祭中に一緒に、お祭も初めて金光様のお祭というものを頂いた。初めて金光様の祭式というものを拝ませて頂いた。といわれておりましたが、例えば天理教の人がみえておるから、こうせねばならん、ああせねばならん。または心にそれがかかるということはなくてです、神様の氏子として天理教の先生もやっぱり私の話を聞いて頂いて、助かってもらわなければならない。
 私の話を頂き終わってから、勿論冗談ですけれども先生あなたのところにお話にならいに行きます。それはやはり、金光様のお話を金光様の信者にさせて頂くお話。天理教の方だから特別にこの話をせんならん。または堅くなるとかやわくなるとかというようなことではなくてです、私は重くも軽くもみなかったところに私は自分ながらに有り難いなあと思わせて頂いたのです。
 同時に例えて申しますとね、これは人間だけではありません。例えばなら、昨日の古賀さんのお宅の新築のお祝い、そういう見事なお家が出来ておる。だからその見事だから見事でないからと言う事ではなしに、ね、私は神様の御心になってみる。言うならば神心で見る。一子同時神の氏子として並べての人をみれれるようになるというのと同時でです、なら、ものでも家でもやっぱりそうである私共この辺のところがかけておる。例えばああいう立派なお家に住まわれてです、ね、それは気分がいいです。けれどもいうならば、いうならば重過ぎる。からというて、重くみるとか軽くみるではなくてです、やはり自分の心の上に、これは自分には過ぎたるものだと思うときにですだからそれを勿体ないから勿体ないからといったようなものではなくてです、その勿体無いというところは信心でカバーしていく。自分たちに良すぎる。だから勿体のうして使われん。だから着物なんかでもそうです。これはいい着物だから勿体無いから、もう着らんというて、直しこんでおったんではもうそのせっかくのものが宝の持ち腐れです。ですからそういうものが自分には分が過ぎるようなものを例えば頂いたときにはですそれだけの修行をさせてもらわにゃないけん。文男先生が車が段々大型の車になっていく。それは有り難いことですね。繁盛です。去年よりも今年今年よりも来年という風に良いものが身に付いていく、良い車にでも乗れれる。良いお家でもそうです。
 ね。段々いうならばお城のようなお家にも住まわせて頂けれるように段々ならなければならない。だからその過程においてです、自分という者をやはり思うて見るときに、自分に分に過ぎたものだと、私は思う時にはです、文男先生がやっておりますようにね、例えばその車なら車何十キロなら何十キロだけは神様にお供えをするというような生き方。いうならば、ね、神様のお参りように、その車を普通はお日参りも出来ないけれども、お日参りでもさせて頂いて足りないところだけは神様へお供えをするというような生き方。ね。何十キロというでしょうか、そのキロ数でその車のあれが分かるわけですね。
 だからそういう生き方をです、自分には勿体無いと思うたら、勿体無いと思うところだけはです、ね、信心によってカバーしていく。そして気分よくそれを使わせて頂くと言う事。お家でもそう、見れば見るほど、素晴らしい。本当に分に過ぎたおかげを頂いた、おかげを頂いただけではなして、分に過ぎたものを頂いたという時には、やはり、そこにです、いわゆる謙虚な気持ちで過ぎた分だけはこれからの信心によってそれをカバーしていく。そういう心がけがなからなければならない。人間を軽う見なと言う事。
 私は今日はそれをまた重く見すぎてもならないと言う事。そこん所のです、一つの調節というか、ね、これをなら、家なら家、車なら車という風にそれがみられるわけです。この車はもう、売るもんだからとか、小さい車だからとか、ね、だからそういう車だからというて、軽う見るのではない。だからというて、良い車をおかげを頂いてお許しを頂いたのならばです、やはりこれは分に過ぎると思うたらですそこの、こうなんというですかね、バランスをとっていかなければならない。
 いうならば信心でそこの調子をとっていかなければならない。古い車なら軽う見る。良い新しい車だから重う見る。そういうことではいけない。
良い着物だから勿体無い。悪い着物だからお粗末にしてもよいと言う事はない。
 ね。いわゆる物を軽う見てはならない。同時にまた、重う見すぎて自分が堅くなってもまたは宝の持ち腐れになってもつまらん。けれどもそういう時の一つの信心の工夫を今日は一つ皆さんに聞いてもらった。
 軽く見ると言う事ではおかげはないと仰るのですから、だから重く見すぎてもそれは変えって下さろうとするおかげをえんりょう申し上げることに結果がなるのです。そのへんのところの兼ね合いを考えていかなければいけない。
 それには本当に私共が何を使うにも何を見るにも信心にならなければ、風采がよければ大事にする風采が悪ければ軽蔑した見方をするといったようなことではおかげはなしと仰るのですから、この辺のところを私共にはあるのです。うかつにしておるのです。ね。むしろ本当は軽蔑しなければおられないような人こそいうならば大事にさせてもらう。
 だから自分が重く見すぎておるところをそこんところは自分が重く見すぎておる事ではこれはおかげにはならない。神様の氏子としてみる。いうならば物でもそう。神様の恩物として頂くところにそれが軽いものであろうが重いものであろうがそれを押し頂けれるというものになります。軽く見たらおかげはなしと同時に、重く見すぎてもおかげのごえんりょうするようになってもまた神様に対して相済まないですからね。 
                                    どうぞ